わたしの日記

父を亡くした娘の問答空間

負荷感情を保留にして整理できる機能が人間には備わっていた

ぼんやりと



「死」について考えることがある。





決して自殺願望があるわけではなく、




「死」についてもう少し考える機会があったら
いざというときに
落ち着いて対処できるのではないかと思うのだ。







お父さんが死んでから
もう4ヶ月以上たったが、
いまだにあの時の状況を整理できていない。





ただ、
日が経つにつれて
少しずつ精神的な落ち着きや
認識をすることができるようになっていることは確かだ。





それを確認する1つとして
夢で見るお父さんへの捉え方が変化していっていることに
客観的評価ができているのだ。










死んだばかりの頃に見た夢は

お父さんが人間ではなかった。





大きな斧で足を切られた途端に小さい煙になって飛んでいったお父さん



ただただケラケラ笑いながら私名前を呼んで話しかけようとしたとたんに消えたお父さん。



大きな祭壇の前に真剣に手を合わせる大勢の人たちのなかにいたお父さん。



人の行き交う中に急に現れたり消えたりしながら1升の日本酒を無我夢中に飲みまくるお父さん。




手足がぐにゃぐにゃなのに普通に歩きながらカップラーメンを3つ運ぶ楽しそうなお父さん。







いずれも「人間」の姿や雰囲気とは少し違っていた。








49日を過ぎたあたりからお父さんと少し会話ができるようになった。




手をつないで一緒にふわふわ浮きながら歩いたり、




手紙をもらうこともあった。




年末になると一緒にハタキを持って大掃除をしたり、




子供が生まれたら真っ赤な目をして泣いてくれた。









しかし、
4ヶ月を過ぎようとする頃には
夢で見るお父さんは
「死んでいる」前提で登場するようになっていた。




お母さんと私とのやり取りをしていると急にお父さんが2階から降りてくる。

(お父さん死んだはずなのに・・・・)
という認識を前提として会話をする。



そういうやり取りをした後に
リビングにある仏壇に目をやると
なぜか仏壇は小さく、暗く、入口には板が立っていた。





最近の夢では
お父さんは数人の人たちと富士山に登っていた。
仲間と写真を撮り、なぜか私はその写真を眺めている。
日付は9月26日。
命日でもなんでもない日付だか、
この日付は何を意味しているのか全く理解ができない。




その後
なぜか場所は神社に移った。
お母さんと私は境内の左端にシートを敷き、
慣れた様子で座ろうとしていた。
そこにはお父さんはいなかった。









もう生きていないお父さん。


その現実を私なりに受け止めようとし、
精神的な負荷のかかりすぎない量を日々取り込んでいるのではないか・・・・?



精神的な負荷は無意識のうちに段階的に並ぶ




お父さんが死んでしまった日から1ヶ月半くらいは
記憶がおぼろげだ。



確かに覚えてはいるが、
視界にモヤのかかる曇ったフィルターから見えいる記憶でしかない。





悲しい気持ちを整理したい気持ちはあるが、
人と話しながら平気な雰囲気を出すので精一杯で
やるべきことをたんたんとこなすだけの日々を送っていた。




夜になると毎日涙が出た。



それを誰にも気づかれないように静かに泣いた。





49日がすぎる頃になると
お父さんが死ぬ1週間前からの出来事を思い出し、



1つ1つ振り返った。



そしてまた涙が溢れて泣いた。





数週間もすると
もう少し前のお父さんとの出来事を振り返るようになった。





悲しい以外の何物でもなかった。








ある程度振り返って想いを馳せることができた頃、
気分が不思議と明るくなった。




お父さんが死んだことをなぜか明るく受け入れられるようになっていたのだ。







人間はよくできている。
負荷のかかりすぎる感性は
体内に取り込まないように無意識に判断し、
状況が整い次第、順次受け入れられるように整列させるようだ。




感情を捨てるのではなく、
ありがたくも保留にしてくれるのだ。







おそらく保留にされた感情は
4ヶ月以上も経ってやっと精算されたのかもしれない。






これから死ぬってどういうことなんだろう?




ただ、
今でも整理しきれない部分はある。




「もう長くない」
と分かった人の思いだ。



どんなことを考えるのだろうか?
何を後悔するのだろうか?




死期が迫るうちに
最後の最後まで捨てきれない願いってなんだったのだろうか??





息が止まりそうで止まらない状況、
心拍の数値は次第に下がりつつあるがまだ動いてはいる状況、


お父さんは何を思っていたのだろうか?



そもそも
考えることすらできない状況だったのだろうか?




だとしたら
「死」とはどの状況を指すのだろうか??




意識が無くなったらもう死んでいるのではないだろうか??







意識がもうなく、
ただただ心電図だけが動く状況の中
私はお父さんに
「お父さん!頑張って!」
とは言えなかった。




死んでほしくない気持ちは変わりなかったが、
十分今まで頑張り抜いて
今でも頑張って息をして心拍を動くかし続けているお父さんに
これ以上頑張れなんて言えなかった。





ドラマとかでよく遺族が叫んで
奇跡的に意識を戻す・・・・・
っていうシーンを思い出したが、




「意識を戻させてどうしろというのか?」

「また辛い闘病生活を続けろというのか?」





ガンが治って元気な状態になれるのであれば
何度も叫んで「死なないで!」と言いたかった。





でもそうはいかないことが分かっていたから
もう黙って心拍が0になるのを見届けるしかなかった。





生きてほしかったけど、
看取る以外の方法しか無かったのだ。





これで良かったのか??


今でもよく分からない。






ただ、言えることは




日が経てば経つほど


悲しみは深いものになる。





周囲は死んだばかりの時期にその家族を心配するだろう。


その家族はあたかも平気そうに振る舞うだろう。


その様子を見て
「なんか大丈夫そうだ。」
と安心するだろう。






そんな単純ではないのだ。


日を追うごとに
気持ちの整理がされ、
少しずつ処理できなかった感情と向き合うようになる。




「え?今頃??」
という時期が最も悲しく、辛く、悩んでいるのだ。





親の死は悲しみの先の感情。



親を亡くしたことのない人には理解できないだろう。





感じたことのないレベルの感情に襲われてしまうのだから。






ただ、私はいいのかもしれない。
死んだはずのお父さんと
夢の中で会話ができる。
それでなんだか幸せな気持ちになれる。



どんだけ望んでも、
現実世界で会うことも電話で話すこともできない。


今頃お父さんは何をしているのか?


「死」とはなんなのか?



永遠のテーマなのかもしれない。。。。。