わたしの日記

父を亡くした娘の問答空間

悲と尊そして慈

もう2019年が終わるようだ。
「今年もいい年でした!来年も素敵な1年でありますように★」
SNS上では毎年盛り上がる。


いい年であったと振り返り、
来年もいい年であると信じなければならないのだろうか?




そんなことをFacebookやインスタで言ったもんには、
批判の嵐になるのは容易に想像がつく。


だから言わない。
周りに合わせていい年であったと振り返るか、
何も発言せずやり過ごすかのどちらかだろう。


ここで本心を書くとすれば、
「2019年は最低な年」であった。

良くないことが3つ起きたのだ。

そのくせそれらをカバーできるほどの良いことは未だ起きていない。


まず、4月末には可愛がっていたロシアリクガメが亡くなった。

次に社会保険労務士試験を1年かけてガチで受験をし、
試験が終わるまで実家に帰るのを控えて、
勉強に集中した。

試験を終えて翌日にお父さんのお見舞いにやっと行き、
元気そうにしていたので安心していたが、
その2週間後にお父さんは死んでしまった。


挙句、 49日が過ぎた頃に合否通知が届いた。


結果は不合格。

1点足りなかったようだ。


この1年私は何をしてきたのだろうか?

何も結果を出せずに終わろうとしている。



ただ、お父さんが最後に必死に生きようとした2019年を
「最低な年」としてまとめていいのだろうか?
むしろ「尊い年」なのではないだろうか?



そういった疑問が消えずに年を越そうとしているのが現実だ。






mixiが流行っていた頃、
思ったことや感じたことをこうやって素直に書いて友達と意見を交わしたり、励ましあったりしていた。

Facebookが出てきて、
少しずつ公式化されたページへという雰囲気になり、
自由に書けなくなった。
mixiの代わりだと捉えていた初めの頃は、
職場の不満や将来の不安などを書いて投稿していたが、



「そんなことは書くべきではない」だとか、
「そんなことを思って仕事をしているのは恥だ」的な事を言う友達が出てきたから、
書くのを辞めた。


それからFacebookの存在意義が私の中で無意味になった。



現実世界のご近所付き合いのように、
うわべだけ合わせて、
何も心は満たされないような付き合い方をFacebookは望んでいる。


わざわざアカウントを作る意味があるのだろうか??


ネット上の住所登録的な存在なのだろうか?




mixiで発散していた私の内面を、
これからどこで発散したらいいのだろうか?



しばらく迷子になっていた。




家でノートに職場の不満を書いていたこともあった。
周りからは「デスノート」と呼ばれていたが、
恨んでいる人を「死ね」なんて書いたことはない。





それだけでは満たされなかった。



書いた内容に関して意見が欲しいのだ。

個人的に飲みに行ったり、
LINEで相談すればいいものかもしれないが、


それはそれでまた満たされない。




mixiの時のような意見交流をしたいのだ。



なんかそういうのが今のSNSには足りないなと思う。






このブログで昔のようなお悩み相談室みたいなことをしたいな・・・・。


匿名だからFacebookのような発言に制限はない。
アカウントがなくても読める。




人の死について語りたいのだ。



身の回りの人が亡くなると、
決まって無言になる。



内に秘めているだけでは何も生まれない。





「悲しい」という言葉以上の悲しみだけど、

その尊い命を、
ただの悲しみにして終わらせていいのだろうか?


確かにこの世に存在していて、
一緒に過ごした尊い思い出を
大切に守り、慈しむ・・・・



私たちにできることはないのだろうか?


すべきことがあるんじゃないか?




「死んだら終わり」にしているのは、
残された私たちのせいな気がしてならない。


「死んでから何かが始まる」


そんな出来事にしたい。
終わりにするには悔しい。



私はまだお父さんのことを諦めてはいないのだ。




人が亡くなるのは
悲しい。なぜこんなに悲しいにか・・・・?
その命は尊いものだったと気づかされるからだ。
だからこそ残された私たちがその人の存在を慈しみ続けていきたいと思うのだ。。。。