わたしの日記

父を亡くした娘の問答空間

夢の手がかり

インスタである霊媒師の方の投稿を見つけた。











守護霊を通して
本人に伝えてあげることができるらしい。








人の心で思っていることも
分かってしまうようで、
子どもの頃は苦労したという投稿もある。










その中で私の夢に関する手がかりになる投稿を見つけた。



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お父さんへの思いが強すぎて
お父さん出てくる夢を見てしまうのかと思っていたが・・・・、



逆にお父さんが私への強い思いがあるから夢に出てくるってことなのか。。。。






納得できたようで、
できない。






なぜなら、
私自身のお父さんへの思いも結構強いものだからだ。








逆に私はこんなことを思った。

私の強い思いは
お父さんの夢に出てきたりしないのかな??

って。









そんなことをモヤモヤ考えている時期に
また夢を見たのだった・・・・。







起床と共にほとんど忘れてしまった夢だったが、
目覚めた後も思い出そうとモヤモヤと記憶の引き出しをあさっていた。



すると少し思い出した部分が出てきた。

景色はなぜか黄色いフィルムからのぞくような視界。


心が落ち着く、不思議な雰囲気だった。



とっても平和な1日でゆったりと時間が進んでいた。




駅から商店街へと続く道。





その道をお父さんと2人で楽しく歩いていた。




すごくすごく幸せで
心が温まるひととき。







私はずっと一緒に散歩できるものだと思って
ワクワクしながら歩いていた。





私自身、「既に死んでいるお父さんだ」
という認識はしていない。

純粋にワクワクしながら2人で歩いていたのだ。









そして急に次の日になり、
お父さんは病室で死んでいた。







すごく幸せな気持ちのままでいたが、




そのうち「こんなの違う!」
と思うようになる。





「お父さんは1週間病室にいたんだから、
 散歩した次の日に死んんじゃうなんて違うよ。」











と、一生懸命現実に起きたことを思い出すうちに目が覚めた。




朝7時ごろの夢だったかもしれない。








起きてスマホを見ると、
お母さんからLINEが来ていた。






ホールケーキの写真だ。

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朝から作ったようだ。
お父さんの大好きだった
ふきのとうの天ぷらと一緒に
仏壇にお供えしたという内容だった。




そういえば、今日はバレンタインデイか・・・。







ホールケーキの写真を見ているうちに、
涙が溢れた。








ホールケーキを焼いたところで
食べる人は誰もいない。




1人で作ったホールケーキをお母さんはひとり寂しく食べるのだろうか。。。。。?



そう思うと悲しくてたまらなくなった。













私自身、今日は仕事があったので、
いつものようにバスに乗って駅で下車した。
そして駅から商店街を歩こうとしたときに気づいた。






夢で見た商店街の風景だった・・・・。




そこでやっとなかなか思い出せずにモヤモヤした気持ちがスッキリした。









お母さんのホールケーキにそそられて
お父さんはこっちの世界へ遊びに来ていたのだろうか???











なんとも悲しくて切なくなるバレンタインデイであった。











負荷感情を保留にして整理できる機能が人間には備わっていた

ぼんやりと



「死」について考えることがある。





決して自殺願望があるわけではなく、




「死」についてもう少し考える機会があったら
いざというときに
落ち着いて対処できるのではないかと思うのだ。







お父さんが死んでから
もう4ヶ月以上たったが、
いまだにあの時の状況を整理できていない。





ただ、
日が経つにつれて
少しずつ精神的な落ち着きや
認識をすることができるようになっていることは確かだ。





それを確認する1つとして
夢で見るお父さんへの捉え方が変化していっていることに
客観的評価ができているのだ。










死んだばかりの頃に見た夢は

お父さんが人間ではなかった。





大きな斧で足を切られた途端に小さい煙になって飛んでいったお父さん



ただただケラケラ笑いながら私名前を呼んで話しかけようとしたとたんに消えたお父さん。



大きな祭壇の前に真剣に手を合わせる大勢の人たちのなかにいたお父さん。



人の行き交う中に急に現れたり消えたりしながら1升の日本酒を無我夢中に飲みまくるお父さん。




手足がぐにゃぐにゃなのに普通に歩きながらカップラーメンを3つ運ぶ楽しそうなお父さん。







いずれも「人間」の姿や雰囲気とは少し違っていた。








49日を過ぎたあたりからお父さんと少し会話ができるようになった。




手をつないで一緒にふわふわ浮きながら歩いたり、




手紙をもらうこともあった。




年末になると一緒にハタキを持って大掃除をしたり、




子供が生まれたら真っ赤な目をして泣いてくれた。









しかし、
4ヶ月を過ぎようとする頃には
夢で見るお父さんは
「死んでいる」前提で登場するようになっていた。




お母さんと私とのやり取りをしていると急にお父さんが2階から降りてくる。

(お父さん死んだはずなのに・・・・)
という認識を前提として会話をする。



そういうやり取りをした後に
リビングにある仏壇に目をやると
なぜか仏壇は小さく、暗く、入口には板が立っていた。





最近の夢では
お父さんは数人の人たちと富士山に登っていた。
仲間と写真を撮り、なぜか私はその写真を眺めている。
日付は9月26日。
命日でもなんでもない日付だか、
この日付は何を意味しているのか全く理解ができない。




その後
なぜか場所は神社に移った。
お母さんと私は境内の左端にシートを敷き、
慣れた様子で座ろうとしていた。
そこにはお父さんはいなかった。









もう生きていないお父さん。


その現実を私なりに受け止めようとし、
精神的な負荷のかかりすぎない量を日々取り込んでいるのではないか・・・・?



精神的な負荷は無意識のうちに段階的に並ぶ




お父さんが死んでしまった日から1ヶ月半くらいは
記憶がおぼろげだ。



確かに覚えてはいるが、
視界にモヤのかかる曇ったフィルターから見えいる記憶でしかない。





悲しい気持ちを整理したい気持ちはあるが、
人と話しながら平気な雰囲気を出すので精一杯で
やるべきことをたんたんとこなすだけの日々を送っていた。




夜になると毎日涙が出た。



それを誰にも気づかれないように静かに泣いた。





49日がすぎる頃になると
お父さんが死ぬ1週間前からの出来事を思い出し、



1つ1つ振り返った。



そしてまた涙が溢れて泣いた。





数週間もすると
もう少し前のお父さんとの出来事を振り返るようになった。





悲しい以外の何物でもなかった。








ある程度振り返って想いを馳せることができた頃、
気分が不思議と明るくなった。




お父さんが死んだことをなぜか明るく受け入れられるようになっていたのだ。







人間はよくできている。
負荷のかかりすぎる感性は
体内に取り込まないように無意識に判断し、
状況が整い次第、順次受け入れられるように整列させるようだ。




感情を捨てるのではなく、
ありがたくも保留にしてくれるのだ。







おそらく保留にされた感情は
4ヶ月以上も経ってやっと精算されたのかもしれない。






これから死ぬってどういうことなんだろう?




ただ、
今でも整理しきれない部分はある。




「もう長くない」
と分かった人の思いだ。



どんなことを考えるのだろうか?
何を後悔するのだろうか?




死期が迫るうちに
最後の最後まで捨てきれない願いってなんだったのだろうか??





息が止まりそうで止まらない状況、
心拍の数値は次第に下がりつつあるがまだ動いてはいる状況、


お父さんは何を思っていたのだろうか?



そもそも
考えることすらできない状況だったのだろうか?




だとしたら
「死」とはどの状況を指すのだろうか??




意識が無くなったらもう死んでいるのではないだろうか??







意識がもうなく、
ただただ心電図だけが動く状況の中
私はお父さんに
「お父さん!頑張って!」
とは言えなかった。




死んでほしくない気持ちは変わりなかったが、
十分今まで頑張り抜いて
今でも頑張って息をして心拍を動くかし続けているお父さんに
これ以上頑張れなんて言えなかった。





ドラマとかでよく遺族が叫んで
奇跡的に意識を戻す・・・・・
っていうシーンを思い出したが、




「意識を戻させてどうしろというのか?」

「また辛い闘病生活を続けろというのか?」





ガンが治って元気な状態になれるのであれば
何度も叫んで「死なないで!」と言いたかった。





でもそうはいかないことが分かっていたから
もう黙って心拍が0になるのを見届けるしかなかった。





生きてほしかったけど、
看取る以外の方法しか無かったのだ。





これで良かったのか??


今でもよく分からない。






ただ、言えることは




日が経てば経つほど


悲しみは深いものになる。





周囲は死んだばかりの時期にその家族を心配するだろう。


その家族はあたかも平気そうに振る舞うだろう。


その様子を見て
「なんか大丈夫そうだ。」
と安心するだろう。






そんな単純ではないのだ。


日を追うごとに
気持ちの整理がされ、
少しずつ処理できなかった感情と向き合うようになる。




「え?今頃??」
という時期が最も悲しく、辛く、悩んでいるのだ。





親の死は悲しみの先の感情。



親を亡くしたことのない人には理解できないだろう。





感じたことのないレベルの感情に襲われてしまうのだから。






ただ、私はいいのかもしれない。
死んだはずのお父さんと
夢の中で会話ができる。
それでなんだか幸せな気持ちになれる。



どんだけ望んでも、
現実世界で会うことも電話で話すこともできない。


今頃お父さんは何をしているのか?


「死」とはなんなのか?



永遠のテーマなのかもしれない。。。。。



負の螺旋と元旦

晦日や正月は家族が集まってテレビを見たりそばを食べたりおせちを食べる。

毎年それが当たり前で、
幸せだとも、
なんとも思ったことは無かった。

ごくごく自然な行事でしかなかった。。。。。


晦日であることの雰囲気、
新年を迎えたなという雰囲気、

それはテレビから作られている。


家族の雰囲気から作られている。。。。。




だが今年はなるべく雰囲気に呑まれないよう
外出を避け、
テレビを付けず、
何も考えないよう勉強をして時間をつぶすことにした。




それでも、

晦日や正月を迎えたことで一気に崩れてしまった。



世の中の幸せな雰囲気。
本来そうしていたであろう自分。

それらが頭をよぎるだけで、
感情の整理ができたと必死に繕っていたはずの
負の感情を抑えきれなくなってしまったのだ。



抑えていた感情とは




負の感情が湧いてきてしまっている今、

自分で抑え込んでいた感情は何だったのかを明かにするいい機会だと思いついた。



周囲が幸せな雰囲気だからこそ、
自分の負の感情が際立つ。。。。。




お父さんが死んでから負の感情は確かに変化してきた。

負なのには変わりないが、
負の種類が変わりながら負の中にいたのだ。





死んでしまった直後は、
感情が無だった。




無だが、涙が止まらなかった。




「悲しみ」のその先の感情だった。




悲しみ


無の感情から
「悲しい」という感情へと変化した。



お父さんが死んだことが悲しかった。


お父さんともう話せないということが悲しかった。


お父さんと同じ時間を過ごせなくなってしまうことが悲しかった。


お父さんはどんな思いで病院で過ごしていたのかを考えると悲しかった。

苦しい治療を耐えないと生きれなくなってしまったお父さんを考えると悲しかった。


それでも私が会いに行くと笑顔で迎えてくれたお父さんを思い出すと悲しくてたまらなかった。


お父さんのいない世界で私は生きていかないといけないんだと考えると悲しくなった。





寂しさ



悲しい感情に少し遅れて寂しさが湧いてきた。


時には悲しみと寂しさが同時な時もあった。





週末になると実家へ行って、
寂しさを紛らわせた。

お父さんがいるんじゃないかと思うから、
実家へ行く習慣を辞めれずにいた。


実家の仏壇に線香をあげると、
寂しさが和らいだ。



少ししてお墓ができた。
仏壇よりお墓の方が、
お父さんがいる気がして気持ちが安定した。




怒り



必死に繕って周囲に合わせて会話をしていた時は、
繕うのが必死で、
余計なことには気が回らなかったが、


そのうち気になるようになってきた。




「なんで、周りは元気で楽しそうに生きているんだろう?」と。




負に包まれた私なんて周囲は気にもしていない。
口では心配しているようなことを言っても、
内心どう接すればいいのか分からないのが伝わってくる。



LINEのグループでは 「結婚しましたー」 なんてのが流れてくるが、



その日がお父さんの命日だったりするもんだから、
「こいつらが楽しそうに結婚式をあげていた時に、
 私のお父さんは死んだのか・・・・」
と考えると腹が立って仕方がなかった。




悔しさ




怒りから
「今に見てろよ!!」
という思いが生まれてきた。




少し前まで、
「あんたの親だっていつか死ぬんだからな!思い知れ!」
という相手が不幸になることを望む、
怒りに似た思いを持ったこともあったが、



そこから、
「もっと幸せになってやる!見てろよ!」
と、自分が幸せになることを願う考えへと変化した。



幸せになるために、
「前回落ちた社会保険労務士や今年挑戦する行政書士の勉強を必死に頑張ろう!」
という勉強に取り組む原動力へと変換された。



でもこれは決してポジティブな感情ではない。

「今に見てろよ・・・。」
と途方もない悔しさから湧き上がる勉強への執念だった。




内心は誰にも分からない



勉強に取り組む姿だけを切り取って見れば、

人は「悲しみから立ち直って、新たな一歩を踏み出そうとしている」
と安心するだろう。




でも私の内心は全く別だ。

いまだに負から正へと変換されていない。

負から負へと変換されて、
その発散法がたまたまポジティブな行為になっているだけだ。



それを自覚せずに、
「自分は気持ちの整理ができた」
と思い込んで負の感情を押し殺すと、
今日みたいな幸せでいっぱいな雰囲気に包まれたときに、
感情の発作が起きてしまうのだ。



頭ではまだ負であることは理解していたが、
行動が伴っていなかったようだ・・・・。


ちらりとSNSを覗いていたのだ・・・。


与えてはいけない幸せな要素をにわかに取り込んでしまい、
感情があふれてしまった・・・・。



こういう時は、
暗いアニメや映画を見るのが1番安らぐ。


負には負を。
決して負に正を交えてはいけない。。。

形見と自分

お父さんの形見って何だろう?


という疑問が湧いてきた。



形見とは何かを調べてみると・・・・

故人の遺品

とある。


じゃあ、遺品とは何なのかを調べてみる・・・・

故人が遺した物全てを意味するが、
一般的には、遺産と区別して
生前使っていた身の回りのものなどの
財産価値の薄い物



それに当てはまるのは、

靴下である。



入院していた時に使っていた靴下。

まだまだ新しい。

おそらく数回しか履いていないだろう。



おじさんっぽい柄ではなく、
かわいい靴下。


水色と赤色の2セット。



お父さんが亡くなって数日してから、
お母さんがくれた。



「これ、使う?
 お母さんはかないし。
 捨てるのももったいないからさ。」





普段履いても違和感がない。


それから毎日履いている。





少し汚れてきたから洗濯をした。。。。
「この靴下がヨレヨレになって穴が開いて履けなくなったら、
 お父さんの形見は無くなってしまうのだろうか?
 この靴下を使わずに取っておいた方がいいのではないだろうか?」





そんなことを思ったが、
靴下を使わないのは何か違和感を覚える。






財産価値のない故人が残していったもの・・・・





なぜ物だけに執着しているのだろう?




その物が壊れたらどうなるのだろうか?


形見はもう無くなってしまうのか?



形見の解釈を少し変えて、

「思い出のある何か・・・・」
とか、


「思いのこもった何か・・・・」
という解釈にしたらどうか?





物より残していける可能性がある。




「何か」とはなにか?


故人の考え方かもしれない。



もしかしから故人の精神かもしれない。



そもそもそれは志かもしれない。





これを「魂」だと表現することもできる。



◯◯魂

とかって言われることもあるが・・・・。





魂にはもう一つ意味がある。



霊的な魂だ。






私は不思議でたまらないことがある。


子どもが生まれる時は、
「魂が宿る」という意識はなく、


なぜ人が死ぬ時だけ、
「魂が抜ける」だとか、
「魂がさまよう」だとか
意識するのだろうか?






この魂とは一体何を指しているのだろうか??



未だ科学的な証明はされず、
宗教的な説明でしか伝えられていない。












人は何によって構成されているのだろうか?




肉体によって人間が存在するのか?


肉体を支える骨が人間を動かすのか?


それとも考えることを可能にした神経系統か?



それは何からできているのか?

細胞?




分子?


原子?





原子が人間を構成していると仮定して、




どのようにしてお父さんは作られたのか?




祖父と祖母から生まれた。
それは当たり前だ。


父は祖父と祖母の原子を受け継いで生まれたことになる。




この原子を単純に表すとしたら・・・・・


『遺伝子』だ。




遺伝子には、

その人の特徴を決定付ける要素が詰まっている。。。。。



魂は二重構造だと思っていたが・・・


「生まれ変わり」について考えていると、

ふとひらめいてしきりに自分で納得した説がある。





魂は先祖代々から引き継がれていて、


その魂を核として、
周囲をその人の魂で覆った状態を1つの魂として構成し、漂っている・・・・。


という解釈だ。




だとすると、

子孫が増えるうちに

誰がどの魂の核を使うか取り合いになるのではないかと懸念される。





そして、
少子化である以上、


宿れる魂の倍率は高まる一方で、
行き場のない魂はどうしているのだろうか???と心配でならない。




魂を原子だと考えてみると・・・



故人の肉体は火葬される。



焼かれた肉体は、

煙となって
火葬場の煙突を通り、
そして空の一部、空気に一部になる。



目には見えないが、

故人の原子は確かに漂っている。





その原子を魂だとすると、



気体の一部になった魂は、
雨が降ると地面に落ちる。



落ちた魂は、
土に混ざるかもしれない。
水に流されるかもしれない。



それをプランクトンが食べ、
プランクトンを魚や虫が食べ、
魚や虫を鳥が食べ、
鳥を動物が食べて肉体に化しているかもしれない。



途中で糞とともに排出され、
土に還り、
植物の栄養になっているかもしれない。



人間が植物である野菜を食べたり、肉を食べたりと、
体内に何者かの魂を取り入れたとして・・・・・



それが「生まれ変わり」ということになるのだろうか?



縁もゆかりもない他人に宿るほど故人は暇ではない気がしてならない。



故人の関心ごとは
決まって自分の子どもたち、孫たち、それに続く子孫であろう。


魂とは何か?



ここで魂を「遺伝子」だとしよう。



同じ遺伝子を持つのは、
自分の血縁に限定される。

縁もゆかりもない他人に生まれ変わる説は無効だ。



魂の核は先祖代々からの使い回しだとする説も、
遺伝子だとすると納得がいく。


故人そのままの魂を丸ごと引き継ぐものだと考えてしまうと、
次の生命に魂を宿すまでに大行列になってしまうが、
遺伝子のように
代々一部ずつを引き継いていると考えると、
みんなの魂が詰まった遺伝子をこれから宿る命につなげているんだと考えることができる。







「故人の思い」といった精神はその人自身の考え方の癖という見方もあるが、
その癖を構成しているのもやはり遺伝子だ。





夢で見た心霊体験はどう説明するのか?




お父さんが亡くなってから夢で出てきたという詳しい話は今まで投稿してきたが、



あれはお父さんのさまよう魂によるものだったのであろうか??






魂を遺伝子だと考えるにあたって、
亡くなった人の魂がさまようというのは理に反する。




だとすると、
どう考えると合点がいくのか?
















亡くなったら魂が肉体から離れて、
さまよう魂をお釈迦様が浄土へ導いてくれる・・・・・


というのは仏教的な物語であって、



現実問題として、
「魂はさまよわない」のではないか?








そう。


そもそもが「さまよわない」のだ。





魂がさまようものだと思い込んでいるのは、
宗教的に植え付けられた先入観であって、




そもそも

そんなものはない。









だとすると、
なぜ亡くなってから私は心霊体験をしたのか?


という疑問が残る。







私にもともと備わっていた
「遺伝子」
が反応したのではないか?










その遺伝子は私のお母さんからのものではく、
お父さんからのものだとしたら。。。。。









意識をすることのできない、
生まれながらにして備わっていた、
本能とはまた違う、
能力のような
第六感のようなもの。






お父さんの魂は、
私を構成していた遺伝子の一部なのかもしれない。



結局のところ形見とは何か?




お父さんの形見は靴下ではない。



魂だ。




遺伝子だ。




そう。

お父さんから既に受け継いでいた遺伝子なのだ。



私自身がお父さんの形見なんだ。




そう考え始めてから、
お父さんがいつもそばにいてくれてる気がして
不思議と気持ちが明るくなってきたのであった。。。。。。。




百日法要と人生の再審


気づけばもう12月。

季節は冬になっている。



昨日はクリスマスだったようだ。




お父さんの死が衝撃だったのか、
あれから身の回りで起きていることがどこか上の空だ。



頭では分かっている。

12月だってこと。

冬になっていること。

クリスマスだったってこと。




分かってはいるんだけど、

いつものように体に染み込んでこない。





この乖離は一体なんなんだろう・・・・?


初めての経験で自分でもよく分かっていない。








お父さんが死んでからもう100日が経ったようだ。


百日法要はしないことになったので、

個人的に墓参りをしてきた。




100日にはどんな意味があるのだろうか・・・・?


調べてみると

49日の審判によって、
故人が思いもよらない世界へ行ってしまうことがある。


100日になると平等王による再審が行うことができるが、
遺族や親族の供養がなければ救済を受けることができなくなる。





とあった。


「思いもよらない世界」とは、
地獄であろうか??



坊さんを呼んでお金を出さないと供養にはならないのだろうか?



墓参りだけでは供養にならないのだろうか?


そうだとしたら、

貧乏人はみんな再審を受けることができなくなる。



大乗仏教がそれでいいのだろうか?


「南無阿弥陀」と10回唱えれば救われる


そういう教えだったはずだ。





この法要には他にも意味があって、


残された遺族は、
悲しい日々から卒業をして
前に進む日



とされている。




49日の朝に見た夢から、
私はお父さんの夢を見なくなった。






100日過ぎたらもっと見なくなってしまうのだろう。





寂しいようで、

1つ成長したような気もする。




悲しくないわけではないが、

悲しみから
何か意味を見いだせるような気がしてきたのだ。





最近朝ドラの「スカーレット」に心打たれる回がしばしある。



その中の1つに、

『私はどんどん大人の階段を登ってるよ!
一足先に結婚したし、子供も生まれるし、お父さんを看取ったし。。。。』






「大人の階段を登る」
と表現する時、
結婚や出産などポジティブな土俵に上がれた時に使うものだと思っていた。



親の死を見送ることも大人の階段だったことは知らなかった。




人間は必ず死ぬ。



不幸にも若くに親より先に亡くなってしまう人もいるが、


基本的には年の順だ。



親を看取るのは子どものつとめ。


自分をこの世に産んでくれた時から
親の最後を看取る義務が同時に生じていたのだ。





誰しもが親と死別する。

それはいつ訪れるのか分からない。


明日かもしれないし、

何十年も先のことかもしれない。



お父さんとの別れは人生で経験したことのない程に悲しいものだったが、


もう別れは訪れない。


1度経験したら、
もう2度と経験することはないのだ。

そう考えると自然と気持ちが楽になる。




周りは不憫そうに私を気づかうが、
別に特別なことではない。


私は奴らに、
「同じことがあなたの身に起きるってことを自覚してますか?」
と問いたい。







何をもって不幸なのか、

今年父を亡くした私が不幸なのか、
それとも不幸になる可能性を未だ残す奴らを不幸だと考えるのか・・・・・・?




ただ言えるのは、
2019年の枠の中では、
この世に生きることができなかったお父さんが不幸だったということだ。


そして看取るしかなかった私達遺族も不幸だったのには間違いない。



判断する間隔を短くするか長くするかによって、
幸福にも不幸にもなる。



そういうことに気づけた百日法要であった。


悲と尊そして慈

もう2019年が終わるようだ。
「今年もいい年でした!来年も素敵な1年でありますように★」
SNS上では毎年盛り上がる。


いい年であったと振り返り、
来年もいい年であると信じなければならないのだろうか?




そんなことをFacebookやインスタで言ったもんには、
批判の嵐になるのは容易に想像がつく。


だから言わない。
周りに合わせていい年であったと振り返るか、
何も発言せずやり過ごすかのどちらかだろう。


ここで本心を書くとすれば、
「2019年は最低な年」であった。

良くないことが3つ起きたのだ。

そのくせそれらをカバーできるほどの良いことは未だ起きていない。


まず、4月末には可愛がっていたロシアリクガメが亡くなった。

次に社会保険労務士試験を1年かけてガチで受験をし、
試験が終わるまで実家に帰るのを控えて、
勉強に集中した。

試験を終えて翌日にお父さんのお見舞いにやっと行き、
元気そうにしていたので安心していたが、
その2週間後にお父さんは死んでしまった。


挙句、 49日が過ぎた頃に合否通知が届いた。


結果は不合格。

1点足りなかったようだ。


この1年私は何をしてきたのだろうか?

何も結果を出せずに終わろうとしている。



ただ、お父さんが最後に必死に生きようとした2019年を
「最低な年」としてまとめていいのだろうか?
むしろ「尊い年」なのではないだろうか?



そういった疑問が消えずに年を越そうとしているのが現実だ。






mixiが流行っていた頃、
思ったことや感じたことをこうやって素直に書いて友達と意見を交わしたり、励ましあったりしていた。

Facebookが出てきて、
少しずつ公式化されたページへという雰囲気になり、
自由に書けなくなった。
mixiの代わりだと捉えていた初めの頃は、
職場の不満や将来の不安などを書いて投稿していたが、



「そんなことは書くべきではない」だとか、
「そんなことを思って仕事をしているのは恥だ」的な事を言う友達が出てきたから、
書くのを辞めた。


それからFacebookの存在意義が私の中で無意味になった。



現実世界のご近所付き合いのように、
うわべだけ合わせて、
何も心は満たされないような付き合い方をFacebookは望んでいる。


わざわざアカウントを作る意味があるのだろうか??


ネット上の住所登録的な存在なのだろうか?




mixiで発散していた私の内面を、
これからどこで発散したらいいのだろうか?



しばらく迷子になっていた。




家でノートに職場の不満を書いていたこともあった。
周りからは「デスノート」と呼ばれていたが、
恨んでいる人を「死ね」なんて書いたことはない。





それだけでは満たされなかった。



書いた内容に関して意見が欲しいのだ。

個人的に飲みに行ったり、
LINEで相談すればいいものかもしれないが、


それはそれでまた満たされない。




mixiの時のような意見交流をしたいのだ。



なんかそういうのが今のSNSには足りないなと思う。






このブログで昔のようなお悩み相談室みたいなことをしたいな・・・・。


匿名だからFacebookのような発言に制限はない。
アカウントがなくても読める。




人の死について語りたいのだ。



身の回りの人が亡くなると、
決まって無言になる。



内に秘めているだけでは何も生まれない。





「悲しい」という言葉以上の悲しみだけど、

その尊い命を、
ただの悲しみにして終わらせていいのだろうか?


確かにこの世に存在していて、
一緒に過ごした尊い思い出を
大切に守り、慈しむ・・・・



私たちにできることはないのだろうか?


すべきことがあるんじゃないか?




「死んだら終わり」にしているのは、
残された私たちのせいな気がしてならない。


「死んでから何かが始まる」


そんな出来事にしたい。
終わりにするには悔しい。



私はまだお父さんのことを諦めてはいないのだ。




人が亡くなるのは
悲しい。なぜこんなに悲しいにか・・・・?
その命は尊いものだったと気づかされるからだ。
だからこそ残された私たちがその人の存在を慈しみ続けていきたいと思うのだ。。。。

理想と現実との幸福潜在説

理想と現実
と聞くと、



夢と希望に満ちた理想
に対して
思うようにできていない現実
今に見てろよ!という現実






現実に満足できていないから、
夢や希望を抱いて努力する。





さて、
努力した結果、
夢や希望がある程度叶った結果、
本当に幸せなのか???








ある日、
小学校の友人から連絡が来た。


「小学生の頃埋めた19年前のタイムカプセルさあ、来月掘り起こすことになってたはずなんだけど、何か知らない??」







親切なことに当時配布されたタイムカプセル開封についての学校便りが添付されていた。


私はてっきり20年後だと思い込んでいた。




幹事は当時の児童会メンバーだが、
どう考えても連絡を回せるほどの拡散力を持ち合わせていない。
そもそもSNS上にいないのだ。





こりゃー誰かが動かないとグダるぞ・・・・。





という不安に駆られ、
連絡を回すことにした。
当時の先生達と連絡が取れないことには
状況を把握できない。




教員時代の知り合いをあたって、当時の校長と連絡がついた。




その情報をSNS上で拡散させることにした。




だが、誰がいたかをしっかり覚えていない。


実家住まいの友人に協力を要請して、
卒アルの写メを送ってもらうことにした。



さっそくiPadに取り込んで、連絡が付いたら写真に丸をしていった。
写真を見れば名前を思い出せた。
どんな奴かもすべて思い出せた。




久しぶりに当時の同級生とやりとりするうちに、
なんだか懐かしい思いになる。







そして卒アルの写真を見るうちに当時の価値観も蘇ってきた。






「なんでなんなに人に興味があったのだろう?」


当時の私は、全員友達だという感覚だった。

今思うと距離感の分からないヤバいやつだ。




タイムカプセルを埋めるときに書いた手紙の内容も少し覚えている。


っというのも、そこに書いた人生年表を現実にするために日々努力してきたからだ。





だから忘れるわけがない。
ただ、当時描いた夢物語なだけあって、
結構無茶な設定をしている。

私は県内トップの湘南高校へ進学する。
私は私立大学トップの早稲田大学へ進学する。
私は税理士になる。
私はタイムカプセルをあけるまでに結婚をして、
5歳の子供がいる。






現実の私は、
市内トップ止まりの高校へ進学した。
私立女子大トップ止まりの大学へ進学した。
何の縁なのか、偶然にも早稲田と近所のキャンパスだった。


お父さんと一緒に過ごすことを優先にして、地元で教師になったが、
学校の閉鎖的な雰囲気、生産性のない組織に将来性を見出せず、
そのうち過労で倒れたのをチャンスだと考え、退職。


その頃、お父さんは全身に転移していて薬の副作用に苦しんでいた。
なにかできることがないか、
こちら側の受け止め方に準備ができないか
そんなことを考えるうちに介護の仕事を始めていた。




奇跡的にお父さんは定年を迎えることができたが、
年金をもらえる年齢ではなかったので、
行ける時に仕事をするっていう感じで再雇用で働いていた。




「なんで、こんな状態なのに、働かないといけないのか?」


そんな不満から、年金について調べるようになった。


年金に詳しくなる資格を調べると、
社会保険労務士というものがあった。

勉強を始めると、内容が興味深く不思議とはかどった。


お母さんの協力もあって、年金事務所に相談へ行くと、
十分もらえる状態だということがわかり、申請をした。


本当ならもう1年前からもらっていい状態だったようだ。
60歳からもらえていた昔の制度から65歳へ変更する時に
段階的に引き上げる年齢にお父さんは該当していたようだった。




私は今年の社会保険労務士の試験を受けた。
受けて2週間後にお父さんは亡くなった。




試験が終わってお見舞いに行った時、
お父さんは「試験どうだった?」
と聞いた。


その次の週にお見舞いに行った時も、
お父さんは「試験どうだった?」
と同じことを聞いた。




「11月に合格発表だからそれまで分からないよー」
っていうと、
「もし受かったら何としてでもものにするんだぞ?」


というのが最後の言葉だった。






お父さんの49日がすぎた11月に発表を迎えた。
お父さんはもういない合格発表。




結果は、1点足りなくて不合格。




何としてでもものにするしかない・・・・。

来年こそは合格しようと誓った。






タイムカプセルを埋めた頃は、
こんな現実を迎えるなんて思ってもいなかった。




勉強さえすれば、
やりたい仕事ができて、
夢を叶えられて、
結婚して幸せな生活を送っていると信じていた。




まさか、
その夢のために、
お父さんは必死に働いて、

定年を迎えるやいなや寿命が尽きてしまうなんてことは思いもよらなかった。



私の学費がなければ、
お父さんは健康でいられて
老後をゆっくり過ごすことができたんじゃないか?




理想を叶えるために、
なにかが犠牲になっている。




そんなことをタイムカプセルを埋めようとする小学生の私が知っていたら、

私はどういう内容の手紙を書いていたのだろうか?






理想を叶えるまでの能力は私には無かったが、
だいたい近くまで迫れた理想を現実にした今、
私は満足だと胸を張って言えるのだろうか?






大切なことを失ってはいないか?


理想を抱いた当時が実は1番幸せだったのではないか?


幸せなことに気づかず、
余計な欲をかいたせいで、
幸せを見失ってしまったように感じる。






もしかしたらこれからも同じようなことが起きるかもしれない。
今気づけていない幸せって何だろう?

それに気づけないと、
また数十年後に「あの時は幸せだった」
などと同じ過ちをするのかもしれない。






今を大切に生きよう。


何気ない毎日を大切にしよう。

世界は単調だった

49日の朝に見た夢(前回の日記)からパタリとお父さんは夢に出てこなくなった。



毎日毎日悲しみが消えず、涙を流さない日は無かったのに、
49日を過ぎてから気持ちが見違えるほど前向きになった。
理由は分からない。




社会保険労務士の試験に落ちていたことを知っても、
なんもやる気になれなかったのに、
今では不思議と元のペースで勉強を進められている。



毎日5時間程度の勉強をし、
バイトへ行ったり、
料理をしたり、


そんな単調な毎日を送っていた。




朝になり、
旦那さんが出勤し、
部屋を暖め、
起きる。


机に向かって勉強をし、
お昼にお腹が空くからご飯を作って食べる。


食事をすると眠くなるので、コーヒーを入れ勉強を始める。


部屋が暗くなってきたら電気を付け、
旦那さんからの電話がくるまで勉強を続ける。


電話が来たら、夕ご飯の準備を始め、
食事を終えたら片付けをして
布団に入る。




そしてまた朝になる。








こういった生活を送っているうちに、あることに気づいた。






『朝になって夜を迎えるだけではないか・・・。』








今更そんなことを言われなくてもみんなが知っていることだが、
他者と極力関わず、自分自身の時間を優先して生活していくと、
世界は単調だということを思い知らされるのだ。






こんな単純な世界なのに、
人はなぜ複雑にこじらせて悩み苦しむのだろうか??




複雑で高度なことをするのが人間の存在意義なのだろうか??






アナログ時計を見てみると、
秒針がぐるっと一周する。
またぐるっと一周する。


何のために一周するのだろうか?


分針のためかもしれない。
秒針が一周すると分針は少し進める。 少しずつ進んでいくうちに秒針のように1周することができる。


何のためか?


何時かを示す短い針のためか?


短い針が2周回ると1日が終わる。




1周回り切るうちのどこかで朝になる。
2周目を回り切るうちのどこかで夜を迎える。




1秒間に何ができるか?
短過ぎて大したことができない。


1分間に何かできることがあるか?


1時間でできることは?


1日でできることは?


1日という単位を基本として
自分はどう過ごしたいのか?
何ができるのか?
どう過ごすのが幸せなのか?




過ごすべきだとか
過ごさないといけないとか
そんな使命感は無意味だ。




過ごすのは私だ。
他人ではない。




1日に注目して、内容を構成していくと、
人生をいかに生きるかより現実味を帯びていてしっくりしてくる。
なぜ私はいままで長い期間をベースに考えを巡らせていたのだろうか・・・・。



人は欲張りな生き物だから、
普段そんな短い感覚で物事を考えることはない。
考えたとしても、それはステップアップの一部の行為でしかすぎない。






人というのは、もっと先のことを考えながら生活を送ってしまう。
将来について。
人生について。
会社について。
家族について。






私はお父さんが亡くなってから、
「お父さんの人生ってどういうものだったんだろう?」


そういうことをひたすら考えていた。
考えれば考えるほど悲しくて寂しい思いになった。




もっと長く行きたかっただろうに。。。。
子供の人生をそばで見守りたかっただろうに。。。
老後をお母さんとゆっくりとすごしたかっただろうに。。。




なぜそんな当たり前のことをお父さんはできなかったのか?








朝になって夜を迎える単調な世界を認識してから、
少しお父さんへの思いが変化してきた。






朝になって夜を迎える枠の中で、
私はあえてお父さんへの悲しみをこじらせているだけなのではないか?
と。




世界が私に悲しみを与えているのではない。
私が悲しみを握りしめて離さないだけなのだ。
世界はただ、朝になって夜を迎えさせているだけだ。




お父さんだって、朝になって夜を迎えながら必死に生きていただけで、
私にお父さんの人生について同情される筋合いなんてないのかもしれない。




そうか。
人はみな朝になって夜を迎えているだけなのか。。。。。

死別と49日

49日って本当の所、どういう意味があるのだろうか?

浄土真宗日蓮宗以外の宗派では、
死後魂がさまよう期間を49日と定めている。

浄土真宗のお父さんが夢に出てくるのは、
魂がさまよっているのとはまた違うことなのだろうか?


そもそもなぜ49日なのだろうか?

1週間を7セット。

1ヶ月と3週間。

これにどんな意味を込められているのだろうか?


仏教は不思議なことばかりだ。

論理的な説明がない限り私は信じることができない。

だから信者にはとうていなれない。

でも、同じように信じることのできない人は沢山いるのではないか?

信じてもいないのに、家族が死ねば坊さんを呼ばずにはいられない。

その後もお坊さん頼みだ。

49日、100日、1年、3年・・・・

追善供養をせずにはいられない。

なかでも49日は追善供養の中で盛大に行うが、

なんで49日は盛大にするのだろうか??



お父さんが死んで50日目の朝、不思議な夢を見た。

場所は病室。

亡くなる前日に移された個室の広い部屋。

お父さんはベットで仰向けになって寝ている。

口には呼吸器。

息だけしている。

病室にはお父さんの呼吸する音だけが響く。

スー

ハー

スー

ハー


その様子を見守るのが、
私とお父さんのお姉さん2人。


なぜかお母さんの姿が見当たらない。

スー

ハー



いよいよダメなのかと思いながら、
悲しむ感情を忘れるほど呆然とするしかなかった。


ベットの横に置いた椅子に座っていられなくなり、
ベットの左側に立ってお父さんの顔をじっと見めた。


「もう抗がん剤で身体ボロボロだもんね。
疲れたよね。
でも、死ぬのは怖いからやるしかないって
前に言ってたよね。
まだ怖いって怯えてるの?
ねえ、お父さん。。。。」


スー

ハー

スー

ハー


瞼が急に動き出した。


白目だった目ん玉がぐるんと動き、黒目が表面に出てきた。

のぞき込んで見ていると、視線が合った。


「え?お父さん?」

するとにこりと笑って口に付けていた呼吸器を外し、
体についたチューブを次々手で引っ張り出した。


????


訳が分からず私は眺めていた。



チューブを外し終えると、ベットから起き、身体を左へ向いて足を床に下ろした。


すると歩き始めたのだ。



照れ臭いけど、そんなこと言ってる場合じゃない気がして私はすかさずお父さんと手をつないだ。



お父さんと手をつないで歩くと、足を踏み出すたびにフワッと身体が浮いて軽くなる。着地をして今度は逆の足で踏み出すとまたフワッと身体が浮いた。

そうやって2人で歩きながら病室を出た。


病室を出ると幅の広い廊下のような場所になった。

そこは処置室のようだ。


フワッ

フワッ

2人で歩きながら処置室を横断していく。


処置室の扉を開けると、
今度はナースステーションに出た。


フワッと身体が浮く力を利用して、
ナースステーションのカウンターの上に2人で立った。


そのまませーので降りる。

私は恐る恐る片足ずつ降りるが、お父さんは両足で思いっきり飛んで楽しそうに着地した。



フワッ

フワッ

ナースステーションの中にある机や書類。

その上をお構いなしに登っては着地してを繰り返す。



書類の上に登っても、
聴診器の上に登っても、
何ひとつ動かない。

お父さんと歩いている途中、お父さんは私のポケットに何かを入れた。

入れたことは気づいていたけれど、
お父さんと歩くのが楽しくてポケットの中を見るのは後回にすることにした。

フワッ

フワッ

フワッ



ナースステーションを横断し終えると、

突き当たりになっていた。

その突き当たりが近くなると、左からお父さんのお姉さん2人の声が聞こえてきた。

どうやらお父さんを呼んでいるようだった。

「なんだー?」と、お父さんはお姉さんの方へ行こうとしたので、
私は「じゃあ、駐車場で待ってるね!」と言って、手を離した。



駐車場は右に曲がった所だったのでナースステーションの突き当たりを右に曲がった。


お父さんと離れた後、
ポケットの中身が気になった。


ポケットに手を入れてみるとお年玉袋が出てきた。

中にいくら入っているかっていうのは、後回しにしようと思い、
お年玉袋を裏にしてみると、
メッセージが書いてあった。


『いつも楽しい人生しょう害をありがどう』



思わずクスッと笑えた。


「まーた、書き間違えてるー。」



「きっと『いつも楽しい人生を生涯ありだとう』って書きたかったんじゃない?」笑



その日はポカポカと暖かく、春のような優しい日差しの穏やかな日だった。。。。。。。








そこで目が覚めた。


夢の中ですっかり忘れていたことがあった。


お父さんはもう死んでいるということだ。



今まで何度かお父さんの夢を見たけど、

夢の中でお父さんが登場すると決まって私は取り乱して夢から覚めていた。




今回はお父さんがこの世にいないことをすっかり忘れて、

自然体でお父さんと手をつないでフワフワ飛びながら歩いていたのだ。




お父さんは遺書を書く暇がないくらい急に容態が悪くなったので、

実際の遺書は存在しない。

けど、夢で見た
『いつも楽しい人生を生涯ありがとう』
というメッセージ。。。。。


もしかして遺言なのではないか?




そしてもう一つ不思議なことに、表情が初めて人間らしかった。

今まで夢にお父さんが出てくる時、

表情がおかしかった。

単一的な表情といえばいいのか、

表情に深みが無かった。

ただ笑ってるだけ・・・・

ただ真剣な表情をしているだけ・・・

ただ必死な表情をしているだけ・・・・



普通大人の表情は、
喜怒哀楽を合わせ持ちつつ、
その時の状況に応じて感情を表に出す。


笑顔だとしてもよく見ると苦笑いだったり、バカにした笑いだったり、同じ笑顔でも心の中での思いによって種類がある。


夢で見るお父さんの表情にはそういった深みがないことに違和感を抱いていた。


お父さんと手をつないでフワフワしながら歩いた今回の夢で初めて
人間らしい表情を見せてくれたのだ。



もう一つ不思議なことがあった。

夢の中で初めてお父さんと会話ができたのだ。

会話というより一方的に
「じゃあ、駐車場で待ってるね!」
と言っただけだったが、

お父さんの手をつないで歩いただけで、
会話をしたような気になれた。


お年玉袋の裏のメッセージをもらえただけで
会話をしたような気になれた。



死んで別れてしまうのは、
死んでしまった日ではなく、
告別式後でもなく、
仰向けになったまま火葬場で焼かれて骨になった時でもなく、
49日なのではないか・・・・・・・?



そう思わずにはいられないほど、
リアルな夢で50日目の朝を迎えたのである。


これが本当の意味でのお父さんとの別れなんだな・・・・。



そう思った瞬間、

涙があふれて止まらなくなってしまった。


涙の期限

お父さんが死んでから、発作のような涙が出る。

ふと頭にお父さんの姿を思い出すだけで涙が出たり、

寝る前に、お父さんの事を考えていて涙が出たり、

霊柩車を見かけると、涙が出たり、

ドラマでベット脇に置かれた心電図を見ると、涙が出たり、

溜め息をすると、涙が出たり、

理由なく、涙がでたりする。



もう数日で49日を迎えるというのに。



毎日涙が出るのだ。




私自身が気持ちの整理ができていないからだと思っていたが、

あまりにも毎日続くので、最近ではお父さんが泣いているのではないかと考えるようになってきた。




お父さんに会えるなら、死にたいとは思わないけど、
霊感のような能力が欲しいとは思うようなった。

お父さんだけに会える霊感。

関係のない霊を見るのは嫌だ。


お父さんが死んだら霊になるっていうのは、生きている人間の願望であって、実際は何も無いのかもしれない。


実際、お父さんは病室で息を引き取って通夜・告別式をして火葬場で骨になった。

私は、言葉では言い表せないほどの悲しみを味わった。

お父さんの病室での様子
葬儀の時の様子
火葬されて仰向けのまま骨になって出てきた様子

記憶にはある。

でも、ハッキリとしたものではない。
もやのかかったフィルターに覆われたレンズで覗いた様子の記憶でしかない。


話をすると同時に涙が出てしまう。
だから、話したくても口を開かないように過ごした。
少しでも涙をだそうもには、どばどばと涙が出てしまうから。

葬儀後は、お父さんの事を深く考えられずにいた。
考えなかったのではない。
考えられないのだ。


違う事をして気を紛らわすという人もいるが、
気を紛らわしても無理のない「違う事」なら可能だという前提条件がある。

よくいうのが、
「仕事をして気を紛らわす」
という人。

それをあたかも万能な方法かのように、他人に勧める。

その人にとって仕事をすると気が紛れるくらいに仕事がその人にとってプラスの方向に働いたというだけであって、

仕事をすればするほどマイナスの方向へ働く人もいることに気づくべきだ。


私は、仕事なんかで気が紛れるほど単純なものではなかった。

お父さんの死と向き合う時間が欲しかった。



葬儀の仕事に関する本を読んだり、
臨終までの様子を描いた本を読んだり、
死後の世界を知るために仏教の本を読んだりした。


ノートに日記を書いて、自分の気持ちの変化を振り返ったり、
カレンダーに閻魔大王などの十王による裁判の日や弁護してくれる十三仏の名前を書いたり、
食べ物の香りがする線香を買いあさって仏壇に並べたり、

それでも気持ちの整理がつかないから、こうやってブログを始めたり、、、




それでも1日のうちのどこかで涙が出る。



どうしたら日常に戻るのだろうか?


そもそもお父さんのいない日常なんてないのだろうか?




いつになったら、この涙が出ない1日を送れるようになるのだろう?