わたしの日記

父を亡くした娘の問答空間

世界は単調だった

49日の朝に見た夢(前回の日記)からパタリとお父さんは夢に出てこなくなった。



毎日毎日悲しみが消えず、涙を流さない日は無かったのに、
49日を過ぎてから気持ちが見違えるほど前向きになった。
理由は分からない。




社会保険労務士の試験に落ちていたことを知っても、
なんもやる気になれなかったのに、
今では不思議と元のペースで勉強を進められている。



毎日5時間程度の勉強をし、
バイトへ行ったり、
料理をしたり、


そんな単調な毎日を送っていた。




朝になり、
旦那さんが出勤し、
部屋を暖め、
起きる。


机に向かって勉強をし、
お昼にお腹が空くからご飯を作って食べる。


食事をすると眠くなるので、コーヒーを入れ勉強を始める。


部屋が暗くなってきたら電気を付け、
旦那さんからの電話がくるまで勉強を続ける。


電話が来たら、夕ご飯の準備を始め、
食事を終えたら片付けをして
布団に入る。




そしてまた朝になる。








こういった生活を送っているうちに、あることに気づいた。






『朝になって夜を迎えるだけではないか・・・。』








今更そんなことを言われなくてもみんなが知っていることだが、
他者と極力関わず、自分自身の時間を優先して生活していくと、
世界は単調だということを思い知らされるのだ。






こんな単純な世界なのに、
人はなぜ複雑にこじらせて悩み苦しむのだろうか??




複雑で高度なことをするのが人間の存在意義なのだろうか??






アナログ時計を見てみると、
秒針がぐるっと一周する。
またぐるっと一周する。


何のために一周するのだろうか?


分針のためかもしれない。
秒針が一周すると分針は少し進める。 少しずつ進んでいくうちに秒針のように1周することができる。


何のためか?


何時かを示す短い針のためか?


短い針が2周回ると1日が終わる。




1周回り切るうちのどこかで朝になる。
2周目を回り切るうちのどこかで夜を迎える。




1秒間に何ができるか?
短過ぎて大したことができない。


1分間に何かできることがあるか?


1時間でできることは?


1日でできることは?


1日という単位を基本として
自分はどう過ごしたいのか?
何ができるのか?
どう過ごすのが幸せなのか?




過ごすべきだとか
過ごさないといけないとか
そんな使命感は無意味だ。




過ごすのは私だ。
他人ではない。




1日に注目して、内容を構成していくと、
人生をいかに生きるかより現実味を帯びていてしっくりしてくる。
なぜ私はいままで長い期間をベースに考えを巡らせていたのだろうか・・・・。



人は欲張りな生き物だから、
普段そんな短い感覚で物事を考えることはない。
考えたとしても、それはステップアップの一部の行為でしかすぎない。






人というのは、もっと先のことを考えながら生活を送ってしまう。
将来について。
人生について。
会社について。
家族について。






私はお父さんが亡くなってから、
「お父さんの人生ってどういうものだったんだろう?」


そういうことをひたすら考えていた。
考えれば考えるほど悲しくて寂しい思いになった。




もっと長く行きたかっただろうに。。。。
子供の人生をそばで見守りたかっただろうに。。。
老後をお母さんとゆっくりとすごしたかっただろうに。。。




なぜそんな当たり前のことをお父さんはできなかったのか?








朝になって夜を迎える単調な世界を認識してから、
少しお父さんへの思いが変化してきた。






朝になって夜を迎える枠の中で、
私はあえてお父さんへの悲しみをこじらせているだけなのではないか?
と。




世界が私に悲しみを与えているのではない。
私が悲しみを握りしめて離さないだけなのだ。
世界はただ、朝になって夜を迎えさせているだけだ。




お父さんだって、朝になって夜を迎えながら必死に生きていただけで、
私にお父さんの人生について同情される筋合いなんてないのかもしれない。




そうか。
人はみな朝になって夜を迎えているだけなのか。。。。。