わたしの日記

父を亡くした娘の問答空間

百日法要と人生の再審


気づけばもう12月。

季節は冬になっている。



昨日はクリスマスだったようだ。




お父さんの死が衝撃だったのか、
あれから身の回りで起きていることがどこか上の空だ。



頭では分かっている。

12月だってこと。

冬になっていること。

クリスマスだったってこと。




分かってはいるんだけど、

いつものように体に染み込んでこない。





この乖離は一体なんなんだろう・・・・?


初めての経験で自分でもよく分かっていない。








お父さんが死んでからもう100日が経ったようだ。


百日法要はしないことになったので、

個人的に墓参りをしてきた。




100日にはどんな意味があるのだろうか・・・・?


調べてみると

49日の審判によって、
故人が思いもよらない世界へ行ってしまうことがある。


100日になると平等王による再審が行うことができるが、
遺族や親族の供養がなければ救済を受けることができなくなる。





とあった。


「思いもよらない世界」とは、
地獄であろうか??



坊さんを呼んでお金を出さないと供養にはならないのだろうか?



墓参りだけでは供養にならないのだろうか?


そうだとしたら、

貧乏人はみんな再審を受けることができなくなる。



大乗仏教がそれでいいのだろうか?


「南無阿弥陀」と10回唱えれば救われる


そういう教えだったはずだ。





この法要には他にも意味があって、


残された遺族は、
悲しい日々から卒業をして
前に進む日



とされている。




49日の朝に見た夢から、
私はお父さんの夢を見なくなった。






100日過ぎたらもっと見なくなってしまうのだろう。





寂しいようで、

1つ成長したような気もする。




悲しくないわけではないが、

悲しみから
何か意味を見いだせるような気がしてきたのだ。





最近朝ドラの「スカーレット」に心打たれる回がしばしある。



その中の1つに、

『私はどんどん大人の階段を登ってるよ!
一足先に結婚したし、子供も生まれるし、お父さんを看取ったし。。。。』






「大人の階段を登る」
と表現する時、
結婚や出産などポジティブな土俵に上がれた時に使うものだと思っていた。



親の死を見送ることも大人の階段だったことは知らなかった。




人間は必ず死ぬ。



不幸にも若くに親より先に亡くなってしまう人もいるが、


基本的には年の順だ。



親を看取るのは子どものつとめ。


自分をこの世に産んでくれた時から
親の最後を看取る義務が同時に生じていたのだ。





誰しもが親と死別する。

それはいつ訪れるのか分からない。


明日かもしれないし、

何十年も先のことかもしれない。



お父さんとの別れは人生で経験したことのない程に悲しいものだったが、


もう別れは訪れない。


1度経験したら、
もう2度と経験することはないのだ。

そう考えると自然と気持ちが楽になる。




周りは不憫そうに私を気づかうが、
別に特別なことではない。


私は奴らに、
「同じことがあなたの身に起きるってことを自覚してますか?」
と問いたい。







何をもって不幸なのか、

今年父を亡くした私が不幸なのか、
それとも不幸になる可能性を未だ残す奴らを不幸だと考えるのか・・・・・・?




ただ言えるのは、
2019年の枠の中では、
この世に生きることができなかったお父さんが不幸だったということだ。


そして看取るしかなかった私達遺族も不幸だったのには間違いない。



判断する間隔を短くするか長くするかによって、
幸福にも不幸にもなる。



そういうことに気づけた百日法要であった。